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24/1/31~ 3年くらいかかるかな?

自己責任・死者の存在・トポス『オルテガ 大衆の反逆』

自己責任

本書の中で最も多く現れたであろうオルテガの主張、「私は、私と私の環境である」という言葉について、私はこの主張には、以下の注釈を踏まえた上で、全面的に同意する。すなわち、オルテガの主張における「環境」という言葉には、「遺伝」と「環境」、その両方が包含されていると考えるのが妥当であろうという点である。

一般に、成功は自身の努力や能力に帰するものと考え、失敗は自身以外の要因、例えば周囲の人間や状況に原因があると考えたくなってしまう傾向があると思う。それゆえ、能力が高かったり、社会的強者の人間であるほど、自己責任論者の割合が大きくなるであろう。

しかし、個人を取り巻く状況が、個人の主体的な意志や行動によってのみ決定されるのではなく、個人の力の及ばない因子によって大きく左右されるという事実について理解があれば、今よりも自己責任論者の数は減り、極端な自己責任論による加害者も減るはずだ。

ただ一方で、他者に対する自己責任論の強要は社会全体としての視点では有害なことの方が多いと思われるが、自身に対してその考え方を向けることはより良い人生を送る上で有益なことだと思う。あまりにも大きなものを除いて、日常の中で突然現れる理不尽に対して、他人や環境に責任を転嫁して不平を並べるよりも、自らに非があったとして対応し、考えを改める、そしてその理不尽をその時点で断ち切ってしまった方が良いはずだ。

死者の存在

私は生まれてこの方、身近に死を感じたことがない。少なくとも物心がついてから葬式に参加したこともないと思われる。そして、そのことに対してコンプレックスを抱いている自分がいることを認めなければならない。

こんなことを人に話せば、怒る人もいるだろうし、呆れる人もいるだろうし、避難されるかもしれない。そんなことは分かっているし、そうそう人に話すつもりもないから問題ない。

でも、これから先、身近な存在、より正確に言えば血縁的に近い存在に死が訪れて、これまでの死者が遠ざけられてきた人生に終わりが訪れることはほぼ確実だ。("ほぼ"と言ったのは、私が今から20分後に死んだのなら、そうはならないからだ。)

その時を境に、私のコンプレックスは浄化していくのだろうか。それとも、その時までにすでにコンプレックスは消えているのだろうか。時間によって解決されることと、時間によって引き起こされること。前者はよく見えないことが多いけれど、後者は蜃気楼のように時々、でもはっきりと見えることがある。とても困ったことだ。

なぜ、コンプレックスを抱えているのかについては、今後の読書記録のどこかで語ることにしよう。「死」を扱った著作は多いだろうから。

トポス

私にはトポスと呼べるものがない。これまで、トポスになり得るべき可能性が視界に入ったことはあったし、手を伸ばせばそれをものにできたかもしれなかったが、結局そうはしなかった。

トポスを、少なくとも意識的には求めていなかった数年前の自分に比べ、今現在の私はトポスを欲している。そして、トポスというものが人間にとって大切な存在なのだということを実感してきている。

 

「分かりあうために 本気を出せるような」

 

自分自身のためにトポスを用意してあげることを、著作を読んでのNew Actionとするのが良いかもしれない。それは後々決めよう。

郊外のボウリング場で独り遊戯に興じるアメリカ人男性。あまりイメージが湧かないが、そういう人もいるのだろう。

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久しぶりに文章を書いてみたが、稚拙でチグハグなひどい文章になってしまった。特に最後は力尽きて、人に読ませる文章ではなく、半ばオートマティズムに近いものになってしまった。反省。

あまり気負わず、良い文章を書けるように訓練を積んでいきたいと思う。